プロフィール

Author:研究所長です
FC2ブログへようこそ!
オイラーを研究して30年。所員募集中。
オイラー生誕300年を期して熱くオイラーを語り合いましょう。


カテゴリー


最近の記事



FC2カウンター


月別アーカイブ


最近のトラックバック


ブロとも申請フォーム


FC2ブログ

熊本行の報告(3)

大学の諸問題
 大学で数学を学ぼうと志したほどの人が数学を嫌いなはずはなく、数学のどこかに魅力を感じていたに違いありませんが、大学に入学後、急速に数学から心が離れていく学生は少なくありません。講義に出てこなくなり、卒業にいたらずに姿の見えなくなる学生も非常に多く、大学側の悩みの種になっています。これは学部の学生の問題ですが、もうひとつ、大学院もまた志願者が極端に少ないという大きな問題を抱えています。大学院を修了しても、その後の進路が漠然として確信がもてないためという理由がしばしば耳に入りますが、当たっているところも確かにあります。
 それでも大学院の前期課程はようやく定員が満たされる程度の志願者がありますが、後期課程となると、志願者の総数は大きく定員を割り、その結果、ほとんど無試験入学のようになっているのが現状です。入学者を確保するための工夫はいろいろ試みられていて、たとえば、修了後の就職状況の改善をねらって、産学共同を強力に押し進めることなどはしばしば見受けられるところです。
 大学院の定員確保の問題は学問とは関係がありませんのでしばらく措き、数学から離れていく大学生が非常に多いのはなぜか、という問題を考えてみたいと思います。10年前、あるいはもっと以前から目立ち始めた現象ですが、大学で行われる数学の講義は年々易しくなり、年を追うほどに相次いで安直な教科書が出版されるようになってきました。数学のテキストであるにもかかわらず、詳しい証明を記述しないのはすっかり普通のことになり、代わって主流になりつつあるのはやさしい例題とその解法を中心に据える流儀です。すなわち、受験時代と同じ勉強法を大学でも取り入れようとする手法です。
 今日の微積分の記述では、極限や連続性などの概念規定にイプシロン-デルタ方式が不可欠ということになっているのですが、教えても歩留りが悪く、効果が上がらないというので、まったく無視するか、あるいはそのようなものもあると軽く触れる程度に留める傾向がほぼ定着しています。これはこれでやむをえない事情があってのことではありますが、このような数学には「数学の魅力」は失われていますから、数学はつまらない、という印象が強まるばかりです。これが、学生が数学から離れていく本当の理由と思います。

Math for teacher’s educationの提案
 大学で教わる数学には興味がもてないとしても、数学という学問から感受される神秘感が消失しなければ、本来の数学を求め続けようとする意志は生き続けます。数学の神秘感を保持し続けるにはどうすればよいのかといえば、受験問題の解き方そのものの中に、この問題を考えるヒントが宿っています。もう少し具体的にいうと、再現が不可能な解法を断然放棄して、ひとつひとつの問題の背景に広がる世界や根柢に横たわる土壌の姿を踏まえて解くようにしてほしい。高校生がはじめからそんなふうに解くのは困難ですから、高校の授業でそんなふうに教えてほしい。そのためには大学院を高校の先生たちに向けて開放してほしいと思いますし、先生たちも再び大学にもどって積極的に学んでほしい。おおよそこのような話をしました。
 今年から教員免許更新制が実施されることになり、35歳、45歳、55歳の教員は各地の大学で開かれる講習会に参加して、30時間の講習を受けなければならないことになりました。30時間程度の講習を受けてもいたずらにくたびれるばかりで意味はありませんし、そんなことをするよりも大学院に籍を置き、2年(前期課程)とか3年(後期課程)にわたって学び、論文を提出して学位を取得して現場にもどり、教育の現場に生かしてほしいと思います。
 熊本ではこんな話をして、高校の数学教育に寄せる大きな期待を表明してきました。「中高一貫」ならぬ「高大一貫」も重要な課題です。微積分のテキストなども、安直な例題集ではなく、数学の流れを踏まえて、生成過程が生き生きと伝わってくるようなものを書かなければならないと、このごろしきりに思います。

熊本行の報告(2)

情緒から生まれる数学
 ガウスは存在するともしないともつかない法則の存在を確信し、孤独な思索を続けましたが、若い日の予感はみごとに的中し、四次剰余相互法則の姿をとらえることができました。それを記述したのが1832年の第二論文ですが、1777年に生まれたガウスは、このとき55歳になっていました。平方剰余相互法則の第一補充法則を発見したのは17歳のときでしたから、この間、実に38年の歳月が流れています。このような法則が必ず存在するという、世界でただひとり、ガウスのみに固有の実在感が具現したのですから、「無が有を生む」とか、「心の世界から数学が生まれる」という言葉がぴったりあてはまる情景です。「数学は何を研究する学問なのか」という単刀直入な問い掛け、あるいはまた、数学はどこから生まれるのかという素朴な疑問に対し、ガウスの歩みは有力なヒントを与えてくれるように思います。岡先生にならって「心」を「情緒」と言い換えるなら、ガウスの情緒の世界から相互法則が生まれたというほかはなく、顧みてしみじみと心を打たれます。
 岡先生多変数関数論の領域で「ハルトークスの逆問題」という難問に取り組みましたが、岡先生は「リーマン予想」とか「ポアンカレ予想」のようなだれもが知る未解決問題に立ち向かったのではなく、みずから問題を造形したのでした。解けるとも解けないともつかない問題ですから、精密には問題とも呼べないかもしれないのですが、岡先生には多変数関数論の世界で何事かを明らかにしたいという理想があり、それを描写しようとするところに、ハルトークスの逆問題の意味がありました。解けると確信して思索を深めていくと、ずいぶん長い時間がかかったものの、それに、実際にはなお完全な解決とは言えないかもしれないものの、相当に大きな部分が本当に解けました。問題は解けてしまえば知的な普遍性を帯びますから、世界の数学者の共有財産になります。ですが、解けないうちは、この問題は岡先生の心の中に存在しているだけのことですから、岡先生の人生と運命を共にすることになります。次数が5以上の代数方程式の解の公式を見つける問題のように、何十年打ち込んでも解けないかもしれませんが、その場合には二通りの可能性が考えられます。すなわち、もともと解けない問題だったのか、あるいは、まだまだ思索が不足しているかのいずれかです。
 数学の問題は解けることもあれば解けないこともあります。解けたなら解けたなりに、解けないなら解けないなりに、いずれにしても成否を左右する根本的な理由があります。ガウスや岡先生が取り組んだ問題とまでいかなくても、受験問題といえども、この点に関する限り事情は同じです。ただし、受験問題の場合には「解けない」ということはありえません。

天の啓示
 ガウスの数論がガウスの情緒から生まれたのはまちがいないとしても、17歳のガウスの心に平方剰余相互法則の第一補充法則が現れたのはどうしてなのでしょうか。いかにも神秘的な現象ですが、かってな思いつきというのではなく、このあたりは「天の啓示」というほかはないところです。ガウスの心に芽生えた「天の啓示」は、どこまでもガウスひとりの思索の世界に所属しながら、しかもガウスの主観の産物ではない何物かであり、出所来歴をさらにたどれば、おのずと「数学の世界」が開示されるように思います。

数学の魅力
 熊本での講演の模様を報告しようとしたところ、おもわず岡先生やガウスの話に深入りしてしまいました。なんだか奇妙に成り行きになってしまいましたが、数学という学問の魅力の源泉を語ろうとしてこんなふうになったのです。数学には独特の魅力があり、人気があります。出版の世界では、物理や化学に比べて数学の本はよく売れると言われていますし、「数学セミナー」のような広い読者層を対象にした月刊の数学誌も出ているくらいです。ガウスや岡先生のように数学に向かうことはだれにもできることではありませんが、数学の世界にはそんな「創造のこころ」が充満しているのではないかという予感を抱き、心を惹かれる人は多いのではないかと思います。数学の魅力は非常に強く、単に魅力というだけでは足らず、魔力と言いたいほどの力があると思うこともあります。
 受験の数学の勉強には魔力はありませんが、数学は数学ですから、魅力がないことはありません。ぼく自身の経験でいうと、数学は何を研究する学問なのかがさっぱりわからず、この点において物理や化学とはまったく異なる印象がありました。それでも、数学という学問が存在するのはまちがいありませんし、数学を研究する数学者と呼ばれる人も存在するのですから、「研究の対象」の実在することに疑いをはさむ余地はありません。それが何なのか、さっぱり見当のつかないところが、かえって数学の魅力の源泉を作っていたように思います。数学の印象は、かすかに匂いをかいだだけですでにきわめて神秘的でした。

熊本行の報告(1)

数学の研究と教育をめぐって
 熊本からもどりました。熊本県下の高校の数学の先生たちが100名ほど集りました。講演90分。受験用の問題集に出ている問題には必ず解答がついていますが、「再現が不可能な解答」が目立つと最近強く感じていますので、問題集の模範解答とともに独自の解答を添えました。どのように解くのがよいのか、問題を提起したつもりです。成否はわかりませんが、非常に大掛かりな集会で、数学教育に向けて熱心な取組みが行われていることを知り、感慨がありました。
 岡潔先生は40年前に盛んに教育を論じました。人の中心は情緒であるという考えを基礎にして、数学教育のあり方を語っていましたが、それから40年、岡先生が理想とした教育は何一つとして実現していません。
 岡先生は三高の学生のとき、ポアンカレのエッセイを岩波文庫で読み、ポアンカレの語るリーマンの数学的思索の姿に深い感銘を受け、リーマンの続きをやる、と決意したということです。それから先の岡先生の人生にはいろいろなことが起りましたが、30代のはじめに多変数関数論に方向を定めた後は迷いがありませんでしたし、最晩年の未発表の一系の研究ノートには、実に「リーマンの定理」というタイトルが書き留められました。


ガウスの「青春の夢」の回想
 このあたりの消息はガウスにも認められます。ガウスは17歳のとき平方剰余相互法則の第一補充法則を発見下のですが、この法則は何かしら「大きなもの」の片鱗であることを即座に感知し、それから数論研究に心身を打ち込んでいきました。平方剰余相互法則の本体はすぐに見つかり、証明にも成功したのですが、基本原理を異にするいろいろな証明を探求し、長い時間をかけて7通り(数え方により8通りになります)もの別証明を発見しました。同じ定理の証明をどうしてそこまでして追い求めたのかといえば、ガウスの「青春の夢」に関連があります。17歳のガウスがまずはじめに発見したのは平方剰余相互法則のかけらにすぎませんが、その発見と同時にガウスの数学の魂が感知したのは、平方剰余の世界をはるかに超越した高次冪剰余の理論の世界であり、平方剰余相互法則のみならず、一般の次数の高次冪剰余相互法則の存在なのでした。
 西暦1795年の年初、世界でただひとり、17歳のガウスのみが高次冪剰余相互法則を感知し、存在することを確信し、法則の姿と証明を追い求めようとしました。平方剰余の場合の相互法則の証明を何通りも試みたのは、高次冪剰余相互法則の証明にも適用可能な力をもつ証明法を見つけようとするためで、このあたりの消息は代数方程式の解法理論がたどった道筋と酷似しています。代数方程式の場合には、3次と4次の方程式の解の公式は何通りもの仕方で導かれましたが、どのひとつも、5次以上の方程式の解法にはつながりませんでした。この場合には存在しないものを追い求めたのですから見つからないのは当然ですが、それでも、存在することを確信して多くの人々が探求したということはまちがいありません。高次代数方程式の解の公式は実は存在しないこと、すなわち、いわゆる「不可能の証明」がアーベルの手で遂行される前夜、ラグランジュは低次数の方程式の代数的解法についてそれまでに知られていたことのすべてを取り上げて省察し、低次数の場合にはどうして成功したのかという問いを問い、分析を試みました。冪剰余相互法則を追求するガウスの姿勢には、代数方程式論におけるこのような経緯のすべてが集約されているように思います。
 ガウスは平方剰余相互法則の7通りもしくは8通りの証明をひとりで発見しましたが、このあたりはカルダノの時代からオイラーにいたるおおよそ300年の数学史が想起されるところです。この間、ガウスの心の中では終始、ラグランジュの「省察」と同様の思索が繰り広げられていたことと推定されますが、この推定が正鵠を射ているであろうことは、数論の領域でのガウスの最後の論文を見ることにより確認されます。ガウスは1828年に
 「四次剰余の理論 第一論文」
という論文を公表し、次いで四年後の1832年には、
 「四次剰余の理論 第二論文」
を公表しました。ガウスは四次剰余相互法則の発見に成功し、この二篇の論文においてそれを表明したのですが、ただし、ここには証明は既述されていませんでした。もう一篇、第三論文を執筆して、そこに証明を叙述する考えだったようで、ガウスの遺稿の中に証明のあらすじを書いた紙片が存在します。それはガウス全集に収録されていますので、参照することができますが、平方剰余相互法則の証明のひとつと同じ原理に基づく証明です。ですが、この第三番目の論文はなぜか日の目を見ませんでした。意に満たない何物かがあったのでしょう。

学問が継承される姿
 ガウスに及ぼされたラグランジュの影響ということに、ここで特に留意しておきたいと思います。ラグランジュがしたことの個々のあれこれから具体的に影響を受けたというのではなく、そもそもラグランジュは相互法則とは無関係なのですから、ガウスにしてみればラグランジュを引用するべき場所はありません。ではありますが、代数方程式論の領域において明示されたラグランジュに特有の思索の様式、すなわち長い歳月にわたる数学の流れそのものに省察を加えるという流儀そのものが、数論の場においてガウスの心に深遠な影響を及ぼしたのは間違いのないところです。一流の師匠のわざを凡庸な弟子がまねるのではなく、真の数学者の資質をもつ者が、もうひとりの真の数学者に学んで数学者に変容するという、人から人へと学問が継承されていくときの真実相が、ここにありありと目に映じます。

 代数方程式論の省察に向かうラグランジュの言葉が続きます。提示された代数方程式が虚根をもつ場合、虚根の個数や正負の実根の個数を識別する一般規則は知られていないと、ここまでのところでラグランジュは語りました。ただし、一般規則は未知としても、係数が具体的な数値として与えられているなら話は別で、その場合には虚根と正負の実根の個数がわかります。そのためには各々の根の近似値を望むだけ高い精度で求めることができればよく、ラグランジュはすでにその方法を与えたと述べています。しかし、とラグランジュはまた言葉をあらためて、「ここでは文字方程式を問題にしているのだ」ときっぱりと(そういう印象があります)言い切りました。文字方程式というのは、係数が数値ではなく文字で指定されている方程式のことを意味しています。
 はじめに回想されるのは、3次と4次の代数方程式の代数的解法の経緯です。3次方程式の解を表示する「カルダノの公式」などが思い出されます。

〈文字方程式の解法に関していうと、カルダノの時代まではほとんど進展が見られなかった。カルダノは3次と4次の方程式の解法を公表した一番はじめの人である。このテーマでのイタリアの解析学者たちの最初の成功は、この領域で遂行可能な発見のうちの一番最後のものだったと思われる。少なくとも、代数学のこの領域の限界を押し広げようとして今日までになされたあらゆる試みは、3次と4次の方程式に対する新しい方法を見つけるのに役立っただけにすぎないことは確かである。それらの方法のどれも、一般に、いっそう高い次数の方程式には適用できないのである。〉

続いてラグランジュのねらいが表明されます。

〈わたしはこの論文において、方程式の代数的解法に関して今日までに見いだされたさまざまな方法を調べ、それらを一般原理に帰着させて、なぜこれらの方法は3次と4次の方程式に対しては成功し、もっと高い次数の方程式に対してはうまくいかないのかということを、アプリオリにわかるようにしたいと思う。〉

3次と4次の方程式の解の公式についてはいろいろな導き方が知られていましたが、ラグランジュは「どうして解けたのか」と問い、さまざまな道筋の根柢にあるものを明らかにしようとしたのでした。このような問いが成立するのは、それまでに多くの人々の手で積み重ねられた究明の蓄積があるからです。ラグランジュの真のねらいが5次以上の方程式の解の公式の有無の判定にあったことはまちがいないとしても、このような「省察」がなされるということは、それ自体の最後にすでに、「存在しないであろう」という予感が広がっていたと推定されます。存在を疑うからこそ、省察の気運が現れたのでしょう。
 序言の最後は次のように結ばれています。

〈この研究には二重の利点がある。一方では、3次の4次の方程式の既知の解法に、はるかに多くの光を注ぐのに役立つであろう。他方では、いっそう高い次数の方程式の解法を究明したいと欲する人々にとって、その目的のためにさまざまな展望を与えてくれるし、わけてもはなはだ大量の無益な歩みと試みを免れさせてくれるという理由により、有用であろう。〉

三度目の熊本行

3月と4月に二度にわたって熊本に出かけましたが、縁あって三たび熊本に行ってきます。今回の目的は、熊本県下全域の高校の数学の諸先生と交流することです。講演会があり、それから懇親会。こちらからもちかけたい話もあれば、うかがいたい話もありますので、とても楽しみです。おもしろいことがありましたら、御報告します。

 代数関数論を語ろうとしている途中で「代数的なもの」に言及し、行き掛かり上、代数方程式の解法理論に話が及んでラグランジュを引き合いに出すという成り行きになりました。それで、この際、ラグランジュの代数方程式論についてもう少し語っておきたいと思います。
 引き合いに出したラグランジュの論文は、
 「方程式の代数的解法に寄せる省察」
というのですが、 1770年と1771年のベルリン王立科学文芸アカデミー新紀要,二回に分けて掲載されました。前半は134頁から215頁までで82頁、後半は138頁から253頁までで116頁。全部で198頁という雄大な作品です。ペテルブルクでもバルリンでもアカデミーの紀要の実際の刊行年は遅れるのが普通で、名目上では1770年と1771年の紀要の刊行もそれぞれ1772年と1773年にずれ込みました。
 冒頭の前書きに少々目を通してみたいと思います。

〈方程式の理論は、その重要性と第一級の創造者たちがこの領域で行った進歩の急速さのゆえに、解析学のあらゆる分野の中でももっとも大きな完成度を獲得するのが当然であると信じられたものであった。だが、その後に現れた幾何学者たちがこの領域に専念し続けたにもかかわらず、彼らの努力は望みうるだけの成功をおさめるというにははるかに遠かった。実を言うと、方程式、方程式の変換、2個もしくはいくつかの根が等しくなるための、あるいはまたそれらの根が相互に与えられた関係式を満たすための必要条件の性質、それらの根をみつける方法等々に関する事柄は、ほとんどすべて汲み尽くされたのである。また、ある方程式の根がことごとくみな実であるか否かを見分けて、すべての根が実の場合には、正負の根がどれだけあるのかを知るための一般規則も発見された。しかし、今日にいたるまで、方程式の虚根の個数を知るためのいかなる一般規則も知られていないし、実根と虚根の個数が知られたときに、正の実根と負の実根がどれだけ存在するのかを知るための一般規則も得られていない。提示された任意の方程式がいくつかの実根をもつか否かを保証する規則さえも、その方程式の次数が奇数でなければ、あるいはその一番最後の項が負でなければ得られていない。〉

ここまでのところでは代数方程式にまつわる諸問題が列挙されています。解の公式を見つけることだけが問題なのではなく、代数方程式にはさまざまな側面があることがわかります。

 数学の歴史を回想すると、「代数的なもの」に着目するという思索の様式はここかしこに見られます。一番典型的な例を挙げると、二次の代数方程式の解法の探求などは古くから知られていましたし、コンパスと定規による作図問題とか、立方体の体積の二倍化の工夫などもこの仲間に数えられます。
 近代の整数論の端緒を開いたのはフェルマですが、そのフェルマに深遠な影響を及ぼしたのは、古い時代のギリシアの数学者ディオファントスの『アリトメチカ』という著作でした。そこで取り上げられているのはいろいろな不定方程式の問題で、整数もしくは有理数の範囲で方程式の解の探索が行われています。それだけではまだ代数的というほどのことはなく、この場合にはむしろ「有理的なもの」と「有理的ではないもの」との区分けに関心が寄せられていたという方が適切のように思いますが、フェルマ以後、オイラー、ラグランジュ、ガウスと続く近代の数論史の揺籃になったことは間違いありません。ガウスの系譜をたどると、19世紀のドイツの地に代数的整数論と呼ばれる新たな数論が出現しましたが、ここまで来ると「代数的」ということの意味合いが明確になってきます。
 19世紀の整数論が代数的でありうるためには、もうひとつ、代数方程式の解法理論の本質に向かう洞察が深まっていかなければなりませんでした。5次以上の代数方程式の解の公式を追い求めて、オイラーもまた真剣な取組みを続けたことは既述の通りですが、オイラーの次の世代のラグランジュになると反省の気運が高まったようで、周知の2次、3次、4次の代数方程式の解の公式が存在するのはなぜだろうかと、形而上的な問いを問うまでになりました。5次以上の代数方程式の解の公式を長年にわたって探求しても、さっぱり見つかる気配がありませんので、そもそも解の公式とは何かという省察を繰り広げたのですが、その結果は必ずしも判然としませんでした。2次、3次、4次の代数方程式の解の公式の導出の仕方はいくつも知られていて、ラグランジュはそれらのひとつひとつについて、導出のからくりを説明したのですが、5次以上の方程式を相手にするとどうも茫漠としてしまい、解の公式はあるのやらないのやら、あるとしてもないとしてもどのような理由によるものなのか、ラグランジュの省察は長々と続くのですが、明らかになったことは何もないというありさまでした。
 ラグランジュの省察が空転気味になってしまうのは、そもそも解の公式が存在しないためなのですが、ラグランジュの次のガウスになるとこのあたりの消息はだいぶ浸透していたようで、ガウスははじめから解の公式の存在を疑っていました。アーベルもガロアもこの点は同じです。整数論と代数方程式論と代数関数論の相互関係の緊密なことは尋常ではなく、そのためと思いますが、オイラーもラグランジュもガウスもみなそろって、この三つの領域に深い関心を寄せ続けました。

 関数が代数的であるというときの「代数的」ということの意味合いについてはなお不明な点が残りますが、代数方程式や代数曲線や代数的数のように、「代数的なもの」の全体がひとつのまとまりのある範疇を形成することはひとまず諒解可能と思います。これに対し「代数的ではないもの」すなわち「超越的なもの」の世界には混沌とした印象があります。超越方程式、超越曲線、超越数について何事かを一般的に語ることはできませんが、ひとつひとつの「個物」に強い個性が備わっていて魅力があります。
 代数的なものの作る閉じた世界を基盤にして、外部世界に踏み出していく道筋が開かれることもあります。これはオイラーが語っていることですが、代数関数の積分を作ると超越関数が現れることがあり、しかもその様相はきわめて多彩です。たとえば、1/xの積分を作ると対数関数log xが生成されます。これは、変化量y=log xの微分はdy=dx/xになるという意味です。また、1/√(1-x^2)の積分を作ると、それは逆正弦関数arcsin xにほかなりませんが、その意味は、変化量y=arcsin xの微分を作るとdy=dx/√(1-x^2)になるということです。一般にf(x)は代数関数として積分y=∫f(x)dx(これはオイラーの表記法で、yは微分方程式dy=f(x)dxを満たす変化量であるということを意味しています)を作ると、実にさまざまな超越的な変化量yが現れます。ここで、変化量yが超越的というのは、xとyの間に代数的な関係が存在しないという意味で、yをxの超越関数と呼んでも同じことになります。
 代数関数の表記について少しだけ注意しておくと、代数関数は必ずしもxの解析的表示式ではありませんから、いつでもf(x)という形に明示的に書き表すことができるわけではなく、むしろそのような表示は不可能な場合の方が普通です。代数関数z=f(x)はxと代数的に結ばれているのですから、代数方程式P(z, x)=0という関係が成立します。そこで、もしあらゆる次数の代数方程式が代数的に解けるなら、言い換えると、任意の次数の代数方程式について根の公式が存在するなら、代数関数z=f(x)は加減乗除に「冪根を取る」演算を加えた五演算、すなわち代数的演算を施すことにより、xの解析的表示式の形に表示されます。今日ではアーベルとガロアの理論により、そのようなことは一般に不可能であることが明らかにされていますが、オイラーはまだその可能性を信じていたのではないかと思います。実際には3次と4次の代数方程式の解の公式は以前から知られていましたので、5次以上の次数の代数方程式の解の公式の探索が問題になります。オイラーはこの問題に取り組み、3次と4次の場合の解の公式を再発見したりしていますが、5次方程式の解の公式の発見にはいたりませんでした(存在しないのですからあたりまえです)。
 5次以上の次数の代数方程式には解の公式が存在しないという事実は、一番はじめにこれを証明したアーベルにちなんで「アーベルの定理」と呼ばれていますが、そのアーベルは代数関数の積分を∫ydxと表記して、y=f(x)というような明示的な表示は使いませんでした。「アーベルの定理」の証明に成功したアーベルは、そのような表示は、少なくとも冪根のみを使うのでは不可能であることを知っていたからです。代数方程式論と代数関数論の関係はこんなふうで、決して無縁ではありません。

 オイラーが関数の概念を提示したのは18世紀の中ころですが、それよりもはるか以前から代数曲線は認識され、その諸性質を知ろうとする試みは、微分積分計算の発見の前後を通してさまざまに行われていました。代数曲線は代数方程式P(x, y)=0で定まると見るのが基本ですが、yをxの関数と見たり、逆にxをyの関数と見たりしなくとも、この曲線の弧長や、あるいはこの曲線で囲まれる領域の面積を算出しようとして式を立てれば、おのずと代数関数の積分が現れます。代数曲線でしたら出発点に方程式が立てられていますから、計算の手がかりがはじめから提示されていることになります。
 これに対し、代数的ではない曲線もまた存在します。代表的なものを例示するなら、サイクロイドはその一例ですし、カテナリー(懸垂線)やトラクトリックス(牽引線)、それにアルキメデスの螺旋なども超越曲線の仲間です。身近なところでは正弦曲線や余弦曲線、指数曲線もしくは対数曲線も超越曲線です。こんなふうに相当にいろいろな超越曲線が知られていて、代数曲線の場合のように接線を引く方法や、そのような曲線で囲まれる領域の面積を求める方法が工夫されていました。サイクロイドは最速降下線とも呼ばれ、変分法の形成の契機を与えたことでも知られていますし、フェルマは独自の工夫を編み出して、サイクロイドに接線を引くことに成功しました。
 ところが、このような個別の知識は蓄積されていくものの、超越曲線の世界は全体として茫漠とした感じがあり、何というか、開かれた世界を形成しているように思います。観念的に考えても、超越曲線というのは要するに「代数的ではない曲線」の総称なのですから、個々の知識がどれほど増大しようとも、超越曲線の世界をそれ自体として考察するのは不可能です。この点が代数曲線の場合と大きく異なるところです。代数曲線でしたら、曲線を規定する方程式の次数や、あるいは無限遠の挙動などに着目することにより、「分類する」ということが考えられますし、実際、ニュートンは三次曲線の分類を試みていましたが、超越曲線についてはそのような試みは考えられません。
 方程式の解法ということを考えても、次数を指定して2次の代数方程式や3次、4次の代数方程式の解の公式を求めようとすることは考えられますが、超越方程式、すなわち代数的ではない方程式については、なにしろその全容を把握する規準が存在しないのですから、一般的解法ということは考えようがありません。数の世界のことでしたら、代数的数の全体というのは考えることができて、ある範疇の代数的数に共通の性質とか、その範疇の特性というものを考えることができそうですが、超越数、すなわち代数的ではない数の全体という枠のない世界のことになると考えようがありません。
 「代数的」ということは偶然の属性ではなく、このような枠組みを設定することができるということ自体に、何かしら本質に触れる性質が内在しているのかもしれません。

 代数関数論をロゼッタストーンと見るヴェイユの視点はきわめて魅力的で、ヴェイユが数学者として創造への道を踏み出していく際の基本契機として、強力に作用したであろうと推察されます。ヴェイユはエコール・ノルマルの学生のときにすでにリーマンに深く親しみ、多変数関数論に関心を寄せ、代数幾何学を建設してモーデルの不定解析の世界に踏み込んでいった人ですから、ロゼッタストーンの物語はヴェイユについて語ろうとする場面では不可欠の第一着手であり、大いに精彩を放つに違いありません。ですが、今日、代数関数論という名で呼ばれている理論のはじまりのころの姿がどのようなものであったのかと問うのであれば、ヴェイユの観点は参考になりません。この方面に一番はじめに手を染めた人は間違いなくオイラーですが、オイラー以降、ラグランジュ、ルジャンドル、ガウス、ヤコビ、アーベル、ゲーペル、ローゼンハイン、ヴァイエルシュトラス、そしてリーマン等々、ヨーロッパ近代の数学史を彩る偉大な名前が次々と心に浮かびます。彼らには彼らに固有の契機があり、それぞれの流儀でめざましい貢献を重ねていきました。形成された理論を解釈する前に、理論掲載に携わった人々の心情を回想し、共鳴の場が開かれることを期待して、理論の根柢にあって理論を生み出した何物かの正体に近接したいと念願しています。
 代数関数論はなぜ代数関数論と呼ばれるのかというと、思索の対象が代数関数であるからなのですが、多種多彩な関数のうちで特に代数関数に着目するのはなぜなのでしょうか。素朴な問いの中でももっとも素朴な部類に属する問いですが、根源は深く、微積分のはじまり以前にさかのぼるのではないかと思います。関数の概念が発生する前に曲線を研究する時代があり、デカルトの時代からすでに曲線の世界は大きく代数曲線と超越曲線に分けられていました。接線法も代数的な曲線については一般的方法がみいだされていましたので、それを拡大して超越的曲線にも適用可能な万能の方法を探索するというのが、微積分の創造の動機になりました。
 このような経緯があるのは間違いありませんが、それでもなお、まずはじめに代数曲線に注目が集まったのはなぜかという疑問は消えません。代数曲線が身近にたくさんあったからというだけの即物的な理由にすぎないのかもしれませんし、もっと根源的なわけがあったのかもしれず、本当のところはわかりません。
 関数概念は曲線の解析的源泉を関数と見るというオイラーの基本思想から生まれたのですが、代数曲線と超越曲線の区分けに応じて、関数もまた代数関数と超越関数に分かれます。「代数的」と「超越的」の識別は近代数学のはじまりのころのころにさかのぼり、長い歴史を背負っています。


Powered by FC2 Blog