11月下旬、所用ができて東京に出かけました。23日は中野の新井町に中秀子さんを訪ねました。秀子さんのお宅は『銀の匙』の作者、中勘助先生が晩年の日々をすごした家で、玄関先の表札には当時も中先生のお名前が記されていました。中先生のお名前と並んでもうひとり、中和子さんのお名前もありました。和子さんは中先生の奥様ですが、嶋田家の三姉妹の長女でした。次女は豊子さんという人で、三女が秀子さん。その秀子さんが中先生の養女になって、中家を継ぐという形になりました。豊子さんは嶋田さんのままで、実家の嶋田家を継ぎました。新井町の家はもともと嶋田三姉妹のご両親の家で、戦火を免れましたので、戦後、疎開先の静岡から東京にもどった中先生は、この家に落ち着きました。このあたりの事情はやや複雑で、もう少し詳しく説明しなければならないところですが、中先生のことを語るのは後回しにしたいと思います。
23日は嶋田家と中家にまつわる昔話をしばらくうかかがいました。
翌24日、東京郊外の福生市内にある「福生山清岩院」を訪ねました。ここには岡先生の晩年の友、胡蘭成のお墓がありますので、かねがね訪ねたいと思っていました。はじめての土地でしたが、JR青梅線の福生駅から適当に歩いたところ、首尾よく清岩院に着きました。臨済宗のお寺です。墓地が広く、しばらく放浪した後に胡蘭成のお墓が見つかりました。
墓石の正面に、
「幽蘭」
という二文字が刻まれていました。胡蘭成の字です。「幽蘭」は花の名前ですが、孔子が作曲したと伝えられる琴の曲に「幽蘭」があります。墓石の左側方の右下に「胡蘭成」の名前と印が刻まれていました。右側方には、
「胡蘭成一九八一年七月に十五日死亡」
「戒名胡蘭成居士」
という文字があり、裏側を見ると、
「昭和五十八年十一月十三日
施主 胡翁之廣」
と施主の名前が読み取れました。胡蘭成の奥さんは翁之廣という人で、上海の人ですが、自分の名前に「胡蘭成」の姓の「胡」の一字を加えて「胡翁之廣」としたのでしょう。普通に行われている習慣なのかどうか、よくわかりません。
墓石とは別に「胡蘭成銘」があり、胡蘭成の略歴が記されていました。
一九零六年
中國浙江省嵊県に生マレル
一九二七年
國民革命軍北伐ノ中燕京大学中退 戰時汪兆銘政府法制局長官 漢口大楚報社長
一九五零年
日本ニ政治亡命 福生市ニ住ミ幾多ノ知己ヲ得ル
一九七四年
中華民國中國文化学院大学永世教授 義塾三社ヲ興 易教講説 ソノ著ハ論理生氣發想ノ[一文字不明]変化無量デ神道ト礼樂ノ真理ヲ究メ東洋文明ノ根源ヲ明解スル 信義篤ク終世節ヲ屈セズ己ノ道ヲ貫イタ
一九八一年
七月二十五日死去 享年七十五
一九八三年九月十三日
コレヲ誌ス