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ガウスの数学日記30 
 ガウスはゲッチンゲンでボヤイと知り合い、親しくなりました。ユークリッドの幾何学の平行線公理をめぐって語り合った模様です。ガウスがブラウンシュヴァイクにもどったのは1798年9月28日(または29日)ですが、ボヤイは1799年6月5日までゲッチンゲンに留まりました。こんな正確な日時がどうしてわかるのかというと、ガウスとボヤイは手紙のやりとりをしていたからです。書簡集も出ていて、詳しい消息が伝わってきます。
 ゲッチンゲン大学時代のガウスのことはダニングトンの本にもほとんど記述があなく、ただボヤイのことのみが語られています。

数学日記の第18項目のテーマは「ニュートンの公式」です。

28.[方程式の諸根の冪和](1796年8月21日)
提示された方程式の諸根の冪を加えたものは、その方程式の係数を用いて、非常に簡単な規則により表示される。(「演習」の中に、別の幾何学的な手法が出ている。)
ゲッチンゲン、[1796年8月]21日

 与えられた方程式の根をa、b、c・・・とするとき、それらの冪の和というのは
  a^k+b^k+c^k+・・・
という形の量のことです。このような量は、与えられた方程式の係数を用いてたやすく表示されるというのが第28項目の内容です。これはつまり「ニュートンの公式」として知られているものにほかなりません。オイラーの『無限解析序説』にも出ていますから、ガウスは知っていたと思われますが、たぶん独自の証明を考案したのでしょう。「演習」というのはガウスの遺稿で、ガウスは「数学演習」と呼んでいました。
 ガウスのゲッチンゲン大学時代は三年ほどで終わりました。学生として登録したのは1795年10月15日、ゲッチンゲンを離れて郷里のブラウンシュヴァイクにもどったのは1798年9月28日、もしくは29日です。帰郷の日を確定したかったのですが、ダニングトンの伝記の本文には「9月28日にブラウンシュヴァイクに帰った」とあり、巻末の年譜には9月29日にゲッチンゲン大学を去ったとありますので、さてどちらが正しいのだろうと迷いました。
 数学日記の日付を追うと、1798年7月に第94項目が書かれています。その次の第95項目の日付は同年10月で、その時点ではすでにゲッチンゲンを離れていますから、ゲッチンゲン時代に94項目まで書かれたことになります。項目の総数は全部で146個ですから、実に64パーセントになります。

 数学日記の第27項目は

27.[互いに素な数と互いに素な多項式](1796年8月19日)
PとQはある一個の不定量の代数関数とし、互いに素とする。このとき、
tP+uQ=0
が成立する。数の理論においても、文字計算においても。
ゲッチンゲン、[1796年8月]19日

 PとQが互いに素な数のときは、ここで言われているような数tとuが見つかることはよく知られていますが、ガウスはこの状勢をPとQが一個の変化量の多項式の場合にも及ぼそうとしています。遺稿「剰余の解析」の一環であり、高次合同式の理論の根底を作る事柄です。
 「数の理論」と「文字計算」の原語はそれぞれalgebra numericaとalgebra speciataですが、ガウス全集版のテキストの註記ではこれらにZahlentheoriおよびBuchstabenrechnungというドイツ語を当てていて、オストヴァルトクラシカーのテキストもこれを踏襲しています。それでここでもひとまずこれに従ったのですが、原語の意味合いについてはなお再考の余地がありそうです。
 最小自乗法は最小二乗法と表記することもあります。当時の天文学で観測データを整理するために案出された手法で、ルジャンドルもガウスと同じ方法を発見しています。
 カロリナ高等学校時代のガウスの数学研究について、ダニングトンの本には、1792年から1793年にかけて、ということはつまり入学して一年目から二年目にかけてということになりますが、ガウスは素数分布の法則を研究したと伝えています。どうしてここまではっきりと年代がわかるのか、不審ですが、何かしら基本的な資料があるのでしょう。あるいは、ガウス自身がザルトリウスに語ったことなのかもしれません。また、オイラーからからその豊かな内容を学び、ニュートンとラグランジュからその表現形式を学んだとも。ニュートンの証明の厳格さに強く影響され、ラグランジュの整数論に関する仕事に魅惑されたとも記されています。もう少し具体的な消息がわかるとよいのですが、ともあれこの時期のガウスにとって、ニュートン、ラグランジュ、オイラーと名を挙げれば、これだけですでに学ぶべき先人のすべてのように思います。数学者は少なかったのですが、その代わりオイラーもラグランジュも実に多産でした。この二人にニュートンを加えれば、10代のガウスの数学研究にとって十分すぎるほどでした。

 数学日記の第26項目は多項式の合同に関するものです。

26.[合同式](1796年8月18日)
(a^p)≡(a)mod.p aはある任意の非有理方程式の根。
ゲッチンゲン、[1796年8月]18日

これもだけではわかりにくいのですが、ガウス全集版のテキストに出ている註記によると、(a)はxの多項式で、根x=aをもつもの pは素数(a^p)は(a)の諸根のp次の冪を根とする多項式とのこと。これはその通りと思いますが、それならこの項目は多項式の合同式に関するもので、『アリトメチカ研究』の幻の第8章の一環です。遺稿「剰余の解析」の中に、この項目で語られているのと同じ命題が出ています。
 全体として数学日記には整数論に関係のある項目が目立ち、まるで『アリトメチカ研究』の舞台裏をのぞいているようなおもむきがあります。
 ガウスの生い立ちを詳しく見ていくと、数学研究という面ではカロリナ高等学校時代が非常に重い意味合いを帯びているように思われてきます。満年齢で数えると14歳から19歳までにあたりますが、年齢から見ても十分に数学研究に打ち込める時期と思います。ダニングトンの本によると、ガウスはニュートン、オイラー、ラグランジュの著作を注意深く研究したように思われるとのこと。わけてもニュートンの偉大な精神に引きつけられて、尊敬し、その方法に十分精通したというのですが、このような叙述の根拠は何なのでしょうか。
 ブラウンシュヴァイクでの最後の年というと1795年のことになりますが、この年、ガウスは最小自乗法を発見しました。これは客観的な事実として受け入れてよさそうです。

 数学日記の第25項目は感動に満たされていますが、具体的な内容はわかりません。ガウスにとって、何かしら懸案の事柄が明らかになったかのような印象があります。

25.[数論](1796年8月16日)
事の眼目は今や判明した。ひとつひとつを確認することが残されている。
ゲッチンゲン、[1796年8月]16日

記されているのはただこれだけですので、何が判明したのか、さっぱりわかりません。この時期のガウスは数学的思索に日々打ち込んでいたのでしょう。
 これまで「カロリナ高等学校」という呼称を使ってきましたが、これはダニングトンのガウス伝の邦訳書の訳語をそのまま借用したものです。ガウスの時代のブラウンシュヴァイクと現在の日本では学校の制度が全然違いますので、実際には適当な訳語が見あたらないのですが、たぶんギムナジウムを中学校に対比させ、大学とギムナジウムをつなぐ位置に配置されているところに着目して「高等学校」という訳語をあてたのでしょう。原語はCollegium Calorinumですから、これをそのまま発音して「コレギウム・カロリヌム」と呼ぶほうがいいのかもしれません。
コレギウムというのはラテン語で「組合」とか「団体」という意味の言葉ですが、英語のcollege(カレッジ)の語源でもあります。カレッジという英語でしたら単科大学というほどの意味合いの言葉と思いますが、ちょっと調べてみるとコレギウム・カロリヌムを継承する学校は今日も存在する模様です。それはTechnische Universität Braunschweigという学校です。そのまま訳出すると「ブラウンシュヴァイク工科大学」。ドイツのもっとも古い工科大学と紹介されています。6個の学部で構成されていて、そのひとつはその名もCarl-Friedrich-Gauß-Fakultätすなわち「カール・フリードリッヒ・ガウス学部」です。ここに数学科、コンピュータ・サイエンス、経営学、社会科学という四つの学科があります。

 数学日記の第24項目には複素数の複素数冪が現れます。

24.[複素数の複素数冪](1796年8月14日)
事のついでに(a+b√-1)^(m+n√-1)を展開した。
[1796年8月]14日

二つの複素数z=a+b√-1とw=m+n√-1を考えて、複素数の複素数冪z^wを展開したというのですが、これはどのように理解したらよいのでしょうか。今日の複素変数関数論の視点に立てば、z^w=e^(w log z)と理解することになりますが、複素対数でしたら、後年ガウスからベッセルに宛てた有名な手紙の一説に示されているように、その正体を早くから認識していました。その手紙よりもはるか以前、1796年8月14日の時点において早々と認識の萌芽が芽生えていたということでしょうか。
 ダニングトンの評伝によると、カロリナ高等学校時代のガウスは古典語の知識を完成の域に高め、近代語を学んだということです。「古典語」も「近代語」ももとの英文では複数形になっていますが、それなら古典語というのはギリシア語とラテン語のことで、近代語というのはフランス語、イタリア語、英語あたりを指しているのではないかと思います。最初の著作になった『アリトメチカ研究』はラテン語で書かれていますし、他の論文もたいていみなラテン語で表記されています。
 語学とともに、ガウスは数学研究を深めたと、やはりダニングトンの本に書かれています。満年齢で数えると、ガウスは14歳でカロリナ高等学校に入学し、18歳の年の秋にブラウンシュヴァイクを離れてゲッチンゲンに向かいました。その翌年の1796年3月30日の記事から、数学日記は始まっています。日記の基礎となった数学の知識や思索はカロリナ高等学校時代に培われたと見てよさそうです。

 数学日記の第23項目ではまたしても平方剰余相互法則が登場します。

23.[平方剰余相互法則](1796年8月13日)
黄金定理の根拠を求めて、どのように深く探究の歩を進めていかなければならないかということを、私ははっきりと認識した。そうして私は、二次方程式を越えた地点に出ることを試みることから始めて、この問題に取りかかる。つねに素数により(数値的に)割り切ることのできる式(1)^(1/n)の発見。
ゲッチンゲン、1796年8月13日

「黄金定理」という言葉は前にも出てきましたが、これは平方剰余相互法則のことで、ガウスに独自の呼称です。その黄金定理の根拠を求めるというのですから、新たな証明法の探索に向かうという意味にとれますし、しかもどのように歩を進めていくとよいのかすっかりわかったとさえ言われています。
 新たな歩みの第一着手は二次方程式を越えていくところに求められています。その次の言葉の意味がつかみにくいのですが、(1)^(1/n)と表記したのは1のn乗根のことです。少し後の第30項目は第23項目の続きですが、オストヴァルトクラシカーのテキストではそれを踏まえて註記を添えています。すなわち、πは任意の数とし、pはπを割り切らない素数とします。nは合同式p^n≡1(mod π)を満たす最小の正の数とします。このとき、x^π-1という形の式を提示して、それを法pに関して素因子分解することを考えます。これが可能なら、いろいろな式が見つかりますが、ガウスが発見したと言っているのはそれらの式のことであろうというのです。
 そんなことをなぜ考えるのかというと、そこに次数2の相互法則、すなわち平方剰余相互法則の証明の原理がひそんでいるからです。x^π-1という式を考えると、二次方程式を越えた地点に出たと言えそうです。これを要するに高次の合同式の理論の建設に向かうということです。ガウスの遺稿の中に「剰余の解析」という表題で分類されているものがありますが、それは『アリトメチカ研究』の第8章になるはずの原稿でした。その中に平方剰余相互法則の二つの証明が書き留められています。ガウスの試みは成功したのですが、その第一着手は1796年8月13日という時点ですでに遂行されていたことに、あらためて着目したいと思います。
 カロリナ高等学校のことはダニングトンの本にいくぶん詳しく紹介されています。創設は1745年。創設者はカール・フリードリッヒ・ヴィルヘルム公爵という人物です。ギムナジウムと大学とのギャップを埋めるところに創設の狙いがあった由。登録簿というのがあり、ガウスは1792年2月18日の日付で署名しました。ゲッチンゲン大学に入学するためにブラウンシュヴァイクを離れたのは1795年10月11日、ゲッチンゲン大学の学生として登録したのは同年同月の15日ですから、カロリナ高等学校時代は3年と7カ月ほど継続したことになります。

数学日記の第22項目の記事は合同式に関するものですが、わかりにくいです。

22.[二項合同式](1796年8月3日)
a^(2^n-+1(p))≡1はつねに冪に分解される。
ゲッチンゲン、[1796年]8月3日

ガウス全集版のテキストにバハマンの註記が出ています。2^n-+1(p)というのは2^n-+1という形の素数pのことで、合同式の法もまた素数が考えられているのであろうとのこと。そのような状況のもとで、式x^p-1の素因子分解が考えられているのであろうというのですが、そんなふうにも考えられるかも、というほどの推測の域を出ません。ダニングトンのガウス伝の巻末に附されているグレイの註記を見ると、ただひとこと、obscureと記されているのみです。あいまいで不明瞭。つまり、よくわからないということです。
 1788年にガウスが入学したという「ギムナジウム」は何という名前なのかとか、設立されたのはいつなのかとか、ダニングトンの本には詳しい情報は何も記されていません。この時期のガウスの消息で特筆に値するのはツィンマーマンとの出会いです。ブラウンシュヴァイクにはカロリナ高等学校という学校があり、ツィンマーマンはその学校の数学、物理、博物の教授でした。1743年の生れで、1786年には参事官の称号を受けて貴族に列せられたということですし、1802年にはフェルディナント公により枢密顧問官に任ぜられたというのですから、この地域での有力者だったのだろうと思います。
 ダニングトンの本に附された年譜によると、ガウスは1791年にブラウンシュヴァイク公、すなわちフェルディナント公の宮廷に参上しています。ツィンマーマンがガウスをフェルディナント公に引き合わせたのでしょう。フェルディナント公もガウスの才能を認識したようで、ガウスはフェルディナント公から経済上の援助を受けることになり、翌1792年の年初、カロリナ高等学校に入学しました。この時点でガウスはまだ満14歳でしかありませんでした。

 数学日記の第20項目に移ると、またしても循環級数に出会います。

20.[循環級数](1796年7月16日)
いろいろな循環級数のスカーラを統合するための諸原理。
ゲッチンゲン、[1796年]7月16日

この記事については、全集版テキストにもオストヴァルトクラシカーのテキストにも何も註記がありません。
 ここまでのところではおおむね数論に関する記事が続きましたが、第21項目に移ると一転して曲線論に出会います。

21.[代数曲線](1796年7月31日)
円錐曲線において、交差する[二本の]直線のなす角の間の関係を証明するためのオイラーの方法は、あらゆる曲線に適用される。
ゲッチンゲン、[1796年]7月31日

全集版テキストを見ると、この項目にはシュテッケルが註記を寄せています。
オイラーの著作『無限解析序説』(1748年)の第2巻のテーマは解析幾何なのですが、第92節と第93節において、円錐曲線に関するひとつの定理が証明されています。それは古代のギリシアの数学者アポロニウスの著作と伝えられる『円錐曲線論』にすでに出ている命題です。
円錐曲線Γがあるとして、点Oを通る二本の直線を引き、それらは円錐曲線Γとそれぞれ二点A,BおよびA‘,B’において交差するとします。このとき積OA・OBとOA・‘OB’の比率は、二直線の方向が一定に保たれる限り、点Oの位置に依存せずにつねに同じ値をもちます。
 オイラーはこの命題の簡単な証明を与え、三次曲線に対しても同じ定理を表明し、そのうえでさらに、もっと次数の高い曲線に対しても同様の性質が成立すると予測しました。ガウスはこの状況を知っていたことを、数学日記の第21項目の記事ははっきりと示しています。1796年7月の時点で、ガウスはゲッチンゲン大学の学生でした。
 第19項目の文言をそのまま読むと、オイラーは何かしら特定の性質をもつ形式を決定したというのですから、それはいったいどのような形式なのだろうという疑問が生まれます。オイラーは「適合数」というものを発見した人ですが、オストヴァルトクラシカーのテキストではそこに第19項目の解釈の鍵を求めています。
オイラーは、4n+1という形の数qが与えられたとき、これを正の数a、x、yをもって
   q=ax^2+y^2
という形に何通りの仕方で表示することができるだろうか、という問題を考察しました。ここで、xとaは互いに素、xとyもまた互いに素という条件を課すことにします。この問題に関連して、もし次に挙げるような性質をもつ数aが見つかったなら、それを「適合数」と呼びます。その性質というのは、

「(固定されたaに対して)このような表示がただひと通りの仕方でのみ可能なのであれば、そのときqは素数であるか、あるいはある素数の平方になる。」

というものですが、オイラーは全部で65個の適合数を見つけました。
 これによれば、適合数aを用いて二次形式x^2+ay^2を作ると、この形式で二通り以上の仕方で表される数は必ず合成数になります。
二次形式x^2+y^2で表される数は、それは奇数であれば必ず4n+1という形なのですが、素数ならただひと通りの仕方で表され、素数でなければ二通り以上の仕方で表されます。これを言い換えると、この二次形式には同じ合成数が二回以上、包含されていると言えることになります。適合数の概念はこれを一般化して、同様の性質を備えた二次形式x^2+ay^2は全部で65個存在することになります。ガウスのいう「オイラーの決定」とはこのことを指しているのであろうというのです。

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