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  書名 『古典的名著に学ぶ微積分の基礎』
  予定刊行時期 平成29年8月
  (7月→8月に変更)
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近刊予告

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  書名 『古典的名著に学ぶ微積分の基礎』
  予定刊行時期 平成29年7月


新数学人集団(SSS)の時代 ノート61 数学的実体とは

数学の姿が大きな変容を経験した時期は第一次世界大戦後のことで、1930年になって休息に抽象化が進行しましたが、この現象を目の当りにして、日本の数学者たちの間にはさまざまな葛藤が生れたのではないかと思います。高木先生は「過渡期の数学」ということを語って、変化の諸相をありのままに観察しようとしていたように思いますが、数学の実質はあくまでもクラシックにあり、抽象は衣裳のようなものだという考え方も広く行われていたのではないかという推測も可能です。谷山さんの世代になると数学はもうすっかり抽象の時代に入っていたのですから、もはやクラシックなどは顧みないという姿勢になっても不思議ではありません。
 ところが谷山さんはそうではなく、クラシックを無視せずに、抽象との内的調和を探究するという構えをとりました。このあたりが谷山さんならではのことで、SSSの他のメンバーにも影響を及ぼしたことと思います。数学とどのような学問なのかということを考えていたのですから、ブルバキで言えばヴェイユと同じような位置をSSSにおいて占めていたのでした。
 谷山さんはファイバーバンドルを例にとって自説を敷衍していきました。以下、多少の語句を補いながら(括弧内に入れました)谷山さんの言葉の紹介を続けます。

・ではfibre bundle(ファイバーバンドル、ファイバー束)を考えましょう。・・・多変数函数論のCousin(クザン)の第二問題が、本質的にはprojective line bundle(射影的直線束)の分類の問題であることは、此の間の一松(信)さんの話にあった通りです。此れは、公理主義の一つの勝利とも見られますが、然し此の場合にも、公理主義の果した主要な役割は、整理することにあったので、例えば、岡(潔)さんの方法はfaisceau(層)の概念の一つの基礎になったものですが、岡さんがfibre bundleとの類推からその様な方法に到達したのではない。此の時、2つの考え方が可能である。「fibre bundleなる一つの概念が多くの物の基礎にあるのであるが、それを体系的に発展させるのは、単なる抽象論では駄目で、それの表れている具体的な事実から、或る意味で帰納的に進んで行かなければならない。」「或る部門に於ける重要な事実は、fibre bundleなる概念によりうまく表現され、又それにより他の部門の同様な事実との関連が明らかになり、此の抽象概念を使うことにより、その具体的な問題を、見透しよく進めることが出来る」――何を目的とし、何を手段として考えるかの相違ですが、両方とも正しいとは言い難い様な気がします。

 岡潔先生の不定域イデアルの理論は層の理論に転化して、現代数学を支える有力な基礎概念のひとつになりました。谷山さんはそのことを念頭においてファイバーバンドルを語り、二つの考え方を述べました。どちらの考え方ももっともらしい印象があり、ほかには考えようがないようにも思えるのですが、「両方とも正しいとは言い難い様な気がします」と谷山さんは言うのです。
 具体と抽象のその奥に「数学的実体」が存在するというのが谷山さんの所見です。

・具体的なものと抽象的なものとの交錯するその奥に、数学に於ける実体がある。大体、実体なるものは固定したものではなくて、時と共に移り変って行くものなので、例えば昔、計算の手段として考えられた複素数が、現在では実体と考えることに誰も異議はないでしょう。そのとき、以前にはそれが実体であることがわからなかったのだと考えるよりも、18世紀の数学では実体でなかったものが、19世紀には実体となったと考える方が自然でしょう。大体、数学的実体なるものは存在しないと考えた方が良いか、さもなければ、実体であるか否かの判定法は、それから導かれる定理によるので、此れはいつか君の云っていた・・・

 数学的実体に寄せる実在感が語られるのではないかという予感もありましたが、そういうことではないようで、「実体なるものは固定したものではなく、時と共に移り変って行くもの」だと指摘され、例として複素数が挙げられました。数学的実体なるものは存在しないと考えたほうがよいという判断もありうるかのようですし、実体が存在するとしても、その判定はそこから導かれる定理によるという考え方も語られました。
 数学には実体なるものが存在して、その究明をめざすのが数学という学問だという考え方を採用すると、どことなく物理や化学のような自然科学の一種のように見えないでもありません。ところが谷山さんは突然転調し、実体などというものはどうでもよいと言葉を続けていきました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート60 クラシックと抽象

数学においてクラシックと抽象を対比させ、クラシックに数学の実質を割り振り、抽象には数学ん実質を定式化して解決するための方法を割り当てるというのは一つの考え方で、そのように理解する人も多かったのではないかと思います。クラシックの全盛時代に数学を学び、抽象に向けて大きく変化していく姿を目の当りにしたとき、クラシックと抽象に折り合いをつけようとするのはそれはそれで自然な成り行きです。高木先生は「過渡期の数学」ということを指摘して盛んに発言していましたが、抽象を嫌う人たちは確かにいました。
 これに対し、SSSの世代の人たちにとっては数学はすでに抽象になっていたのですから、クラシックと抽象という二つの数学に挟まれているという感覚はもう失われていたのではないかと思います。遠山啓先生ははじめ東大の数学科に学びましたが、坂井英太郎先生の微積分の講義に失望して中退しています。なんでも坂井先生は曲線の概形を描くことばかりをやっていたとのことで、いかにもクラシックの微積分という感じがします。遠山先生はさっぱり興味がもてず、自主的に退学してしまうのですが、その遠山先生が昭和27年(1952年)に刊行したのが『無限と連続』という著作でした。副題は「現代数学の展望」。5月に刊行されて、翌6月23日にはSSSの創設メンバーたちが集まってこの本の合評会が行われました。
 クラシックな数学に失望した遠山先生が抽象数学を語る著作を出し、それに感激した人たちがSSSを作りました。それならクラシックは捨てられて顧みられないのかというとそうでもなく、たとえば倉田先生はヒルベルトの現代的意義ということを語りました。谷山さんもまたクラシックと抽象にをめぐって考えています。
杉浦先生への手紙で、谷山さんは「数学的実体」ということを語りました。以下、摘記します。

・数学的実体と云うものが存在し得るとすれば、それは公理系により定義される抽象的な概念でもなく、又具体的に存在する、数、空間、物理現象、乃至それ等の関係、運動法則と云うものでもない。常識的な様ですが、具体的な多くの異ったものが、一つの抽象的な概念の下に統一され、又多くの抽象的な概念が一つの具体的なものの中で関連する。此の二重の関係が、その本質を究明する鍵ではないでしょうか。

 一個の抽象概念には無数の具象的個物が詰め込まれていて、一個の具象的個物には無償の抽象概念が内在しているというほどの考え方のように思われます。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート59 谷山さんの手紙より

数学における抽象と具象との関係について、谷山さんの言葉に耳を傾けてみたいと思います。谷山さんが急に亡くなったのちのことですが、「数学の歩み」(「月報」の後継誌)第6巻、第4号(1959年)は谷山さんを追悼する特集記事でいっぱいになりました。所感もたくさん集められていますが、その中に昭和29年7月15日付で杉浦光夫先生に宛てた一通があり、抽象と具象をめぐる考察が書き留められています。谷山さんの生誕日は昭和2年11月12日ですから、このとき満26歳。杉浦先生は昭和3年のお生れで、月日がわからないのですが、ほぼ同年です。大学の卒業年は同じ昭和28年でした。谷山さんの所在地は郷里の埼玉県騎西町。杉浦先生の当時のお住まいは文京区雑司谷です。
 谷山さんの手紙を摘記します。

・最近一寸考えているのですが、数学の実質的部分はclassicなものにあり、抽象的なものは、それを定式化し、解決するための方法にすぎないと云うこと、此れは一寸変だと思いませんか。Classic乃至具体的なものと、抽象的なものとを、此の様に機械的に分離することは、現在の数学を本質的に把握し、それを発展させるに適当な方法でしょうか。数学とは無矛盾な公理系から論理的に導かれる体系であると云う考え方、此れは、抽象数学を“輸入”した日本では、容易に根を張り得る考え方ですが、此れに対するアンチテーゼとしては、以上の様な考え方は、有意義ですが、やはり事の真相をとらえたものとは云い難いのではないでしょうか。

 いきなり心を惹かれる問題が提起されました。いくぶん錯綜とした感じもありますが、ともあれクラシックな数学と抽象的な数学が対比されています。クラシックな数学というのはおおむね第一次大戦の前までの数学を指し、第一次大戦後に現れてきた数学を抽象的な数学と呼んでいるのであろうと思われます。もっとも抽象数学の萌芽は第一次大戦前にも現れていたこともまちがいのないところです。
 抽象数学とは何かというと、「無矛盾な公理系から論理的に導かれる体系」と理解されています。クラシックといい、抽象数学といい、いずれにしてもヨーロッパを舞台にして出現した数学の姿ですし、日本の数学者が関与したわけではありません。日本ではもっぱらヨーロッパの数学を輸入するのですが、クラシックから抽象数学へと極端に変遷すると、折り合いをつけて両方とも受け入れるためには何かしら方便が必要になりそうです。ひとつの有力な考え方は、「数学の実質的部分はclassicなものにあり、抽象的なものは、それを定式化し、解決するための方法にすぎない」と見ることですが、谷山さんはそれに疑問を感じた様子がうかがわれます。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート58 ヒルベルトのように

倉田先生は日本の数学の現状を危機と見ている模様です。

・例によって危機は、わが国にあっては、二重に耐えがたく現れる。たとえば古典の伝統の不足のため、アメリカ留学または本格的帰化のため、・・・。
・しかし、われわれは高木整数論の貴重な伝統、科学的数学史の伝統(小倉金之助とその弟子たち)、果敢な民主主義的教育運動の伝統をもっている。特に最近では、静間、遠山氏らは小倉氏の伝統を継ぎつつも、数学そのものに関しての、大きな、根本的な内容豊富な問題を提供しつつある。
・他方、アカデミーの先鋭分子は、明確な目標と問題を持っており、古典の名誉の回復が次の段階への移行にあたって演じる役割を知っているし、フォーマリズムに事実上反対している。だから、現在、危機に対して、勇敢な野党派とアカデミーのすぐれた科学者との連合が可能となってきた。

 日本では数学の危機は二重に現れるとのこと。ひとつは古典の伝統の不足のためというのですが、もともと西欧近代の数学を学んでいるのですから、伝統は不足というよりもむしろ存在しないというべきなのかもしれません。それでも数学研究の方面では高木貞治先生の類体論があり、数学史の方面には小倉金之助の研究がありますから、伝統の基盤は形成されていると見ているように思います。
 危機のもうひとつの面は数学者たちが次々とアメリカに行ってしまうことのようですが、この問題はSSSでは重要な問題と見られていたようで、『月報』誌上でしばしば取り上げられています。ところが、他方では「アカデミーの先鋭分子」や「勇敢な野党派」という人びとが存在するとのこと。具体的にはどのような人たちを指しているのでしょうか。
このような認識に基づいて、危機に対する対処法が提案されました。

・ヒルベルトがそうであったように、語り合い、討論の広場を各所に作ること。
・ヒルベルトがそうであったように、共通のできるだけ広く、大きな問題目標をだいたんに提供しなければならない。
・ヒルベルトのように、古典の正しい理解を深め、安易なフォルマリズムに反対しないわけにはいかないし、科学の相対的独自性の過小評価に反対しないわけにはいかない。
・特に応用偏重主義に反対しなければならない。というのは、むろん、ヒルベルトがそうであったように、応用を正しく評価すべきだ。だが、他方、植民地になってから生じたひとつの新しい傾向は、成果を急ぐ卑俗な実用主義であり、それは不毛の抽象癖とともに、アメリカ経験主義の双生児であり、特に無内容な点で瓜二つの双生児なのだから。
・最後に、われわれの時代は、ヒルベルトの時代よりも、「問題」にせよ、概念にせよ、計算にせよ、ひどく込み入ってきた。ヒルベルトがそうであったようにではなく、集約された概念の各発達段階、対象の質の性格についての深い、大規模な理解が要求されている。これに対してわれわれは、たとえば物理学などに比べて立ち遅れている。このことの達成は伝統の不足をカバーするだろう。

 「成果を急ぐ卑俗な実用主義」と「不毛の抽象癖」はアメリカ経験主義の双生児と言われています。倉田先生はこれを批判して、「ヒルベルトのように」という言葉を繰り返しました。正確な認識と思いますが、倉田先生のいう「アメリカ経験主義の双生児」は60年余ののちの今も猛威を振っています。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート57 抽象数学の時代

倉田先生のみるところ、後年のヒルベルトの見解は哲学的単純さとドグマを含むものですが、ヒルベルトの名とともに不滅な多くの仕事と公理的方法の重要性を損なうものではないということです。「哲学的単純さとドグマ」というのはどのような意味なのでしょうか。

・ヒルベルト以後、今日にいたるまで、基礎論、古典数学の基礎づけ、および抽象数学と、ひとつのヒルベルトの精神は歴史において必然的であったが、他方、もうひとつのヒルベルト精神が主張したように、発展の原動力は依然として古典的問題と応用部門から提供された「問題」であった。全体としてそのモチーフは、1910年ころから始まるところの、抽象数学による大掃除の時期、および1935-36年以後の古典数学の全面的かつ徹底的な再検討の時期を通じて変化してきた。もっともこれは、世界数学の最良部分の問題意識の変化の過程であり、上記の判断は1934―42年、高木貞治によって与えられたものだ。

 ここに高木先生が登場するのはいくぶん唐突な感じがしますが、高木先生は数学の姿の変化に非常に敏感に反応して、「過渡期の数学」をはじめ、盛んに発言を重ねていました。倉田先生の念頭には、その一連の高木先生の発言があったのでしょう。

・それと同時に、不毛な抽象化(アメリカのフォルマリストたちの)の流行、分散的かつ末梢的な研究態度、目標の喪失、教育制度の欠陥もまた出現する。その中で、1935-6年ころから活躍するブルバキらの方法的統一性と古典の名誉の回復運動はむろん特筆に値する。

 おもしろい観察が語られています。アメリカでは抽象化が進展し、それは不毛とのこと。ブルバキの試みは不毛な抽象化とは無縁のようで、「方法的統一性と古典の名誉の回復運動」というのですが、このあたりは議論の余地がありそうです。この叙述によると、抽象数学にはアメリカの抽象とブルバキの抽象の二つが存在するかのような印象を受けます。アメリカの抽象は不毛ですが、ブルバキの抽象には方法の統一と古典があるとのこと。方法の統一というのは、数学を構築する際の構造主義的な建築術を指しているように見えます。古典の名誉回復というと、ブルバキの叢書「数学原論」に附せられている「歴史覚書」が連想されますが、ブルバキのメンバーもたいていは歴史に無関心で、関心を寄せていたのはヴェイユだけのように思います。「歴史覚書」も少なくとも初期のものはヴェイユがひとりで書きました。
「1935-36年以後の古典数学の全面的かつ徹底的な再検討」というのも、具体的にはヴェイユのことを指しているように思います。
 ヴェイユがいたためにブルバキはアメリカの抽象と一線を画することができたのですが、ヒルベルトの公理主義との関係はどのように見たらよいのでしょうか。こんなことを念頭に置いて、倉田先生の言葉の続きに耳を傾けたいと思います。

・数学全体に対して、威嚇的な姿で立ち現れるという意味での「基礎の危機」は、現代では過ぎ去ったと考えられる。

 ここに、「たとえば、ヴェイユ、ワイルなどの見解」という註記が附されているのですが、これは何を指しているのか、よくわかりません。


新数学人集団(SSS)の時代 ノート56 数学における「問題」の役割をめぐって

ヒルベルトの現代的意義を語る倉田先生の言葉を続けます。

・ヒルベルトのパリ講演とは、1900年の国際数学者会議の教育部会でヒルベルトが行った「数学の将来について」と題する講演である。将来数学の発展に重要な役割を演じるであろうと思われる23個の問題を挙げた。ヒルベルト自身は、不変式(1885-1895年)、代数的数論(1893-1898年)、幾何学基礎論(1898-1902年)、積分方程式・変分法(1902-1912年)、一般基礎論(1922-1930年)を各時期に集中的に行ってきたのであるから、1900年は不変式と整数論を終えて、変分法に関心が移ろうとした時期にあたる。当時、40歳。もっとも生気充溢した時期であった。
・当時の数学はガウス、リーマンの伝統の花咲くゲッチンゲン君臨の時代で、ドイツ純粋数学が満開のときであった。批判的数学ができかかった時代であるとともに、基礎の危機が云々され始めたころであり、文字通り19世紀の終り、20世紀のはじめであった。
・ヒルベルトの言わんとするところは、数学の発展において果す「数学の問題」の役割の決定的重要性に関してである。数学の世界の外では、ヒルベルトは、あたかも公理主義という哲学的なひとつの要請でもって、数学を無内容な形式論理の体系に変えた男だと言われる。だが、実際は反対に、ヒルベルトは同講演で次の諸点を指摘した。

 このように前置きして、倉田先生はヒルベルトの6個の指摘を紹介しました。

・各時代はその問題をもっている。問題の死滅は数学の死を意味する。問題や目標のない方法は無意味である。ヒルベルトはここで各種の例を挙げた。わけてもフェルマの問題、あるいはベルヌーイの問題や三体問題の役割を正史的に述べ、前者が内部から、後者が外部から生じた点を指摘した。だが、新しい問題は、その起源を外部にもっていても、それはただ野生の木であり、園丁の技術によって母株に接木されるべきことを要求し、数学の相対的独自性の性格と、古典伝統の問題を投げかけた。
。厳密さをかんたんさの敵と考えるのに反対し、級数論の厳密性が数学を明朗にしたことを示し、厳密性は煩雑さではない点を強調した。
・直観的素材(たとえば図形のような)の役割を強調した。
・方法に関して、ヒルベルトは、重要な問題とは、それが全体の困難な鎖の中で、そこを把握すれば全体が解けるような環たるべきことを強調した(たとえばイデアル論)。
・特殊化の重要性
・数学の全体性、有機的な統一性を見失わざること。

 このような前置きに続いて、ヒルベルトは23個の問題を挙げました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート55 ヒルベルトの現代的意義

SSSは「数学とは何か」という問いにこだわっていましたが、この問題は「少数精鋭主義」に抗する心情と関係がありそうに思います。数学の真理というものがどこかにあって、それを見つけるのが数学者の仕事と思うと、少数精鋭主義で対処するのがよさそうに見えないこともありません。数学には未解決の難問もあり、たとえば素数分布に関する「リーマンの予想」などの解決に取り組むというのであれば、たいていの人には解けないのですからやってもむだで、少数の精鋭にまかせておけばよいではないかという主張が成立しそうです。数学の研究というのはそのようなものであろうと、広く考えられているようにも思われます。
ですが、数学の問題はどこからやってくるのでしょうか。このあたりが数学の不思議なところで、容易に答えることのできない神秘が秘められています。リーマンがいなくても「リーマンの予想」はありえたのでしょうか。「リーマンの予想」は、それ自体がリーマンに固有の創造物なのでしょうか。数学を「創造する学問」と見ると、少数精鋭主義は無意味になりそうです。創造する心をもつ少数者を、前もって選定することはできないからです。
数学とは何かという問いに対するSSSの考えが表明されている記事に、「ヒルベルトの現代的意義」というのがあります。「月報」第4号に掲載されました。副題は「パリ講演について」。第3回科学史および科学方法論研究サークル連合シンポジウムにおける新数学人集団の報告の要旨という説明が附されています。
 科学史および科学方法論研究サークル連合というのは、東京の各大学の科学史、科学方法論に興味をもつサークルが集まって、十数もの団体で組織された団体で、日本科学史学会の主催で半年に一回、連合シンポジウムを開催していた模様です。1953年6月に第2回目のシンポジウムが行われ、SSSもこれに加わり、「日本近代数学史」という報告を行いました。第3回目のシンポジウムは同年11月29日に東大で開催されました。約100名の聴衆が集まりました。報告は計九つ。15分の報告に15分の討論が附随しました。
「ヒルベルトの現代的意義」は「月報」に掲載されたときは著者名のない記事だったのですが、後に倉田令二朗先生と判明しました。以下、摘記してみます。

・新数学人集団は、すうがくについての正しい学習方針を立てるために、「数学者」としてのヒルベルトの見解を研究することが必要であると考えた。すでに各自の研究を進めている若干の人びといよって、1900年のパリ講演の翻訳と検討が、現代数学の課題と照らして試みられ始めた。それは後に述べるように、現代数学のいくつかの好ましくない傾向を克服する上に一定の役割を果すことを示した。

 書き出しの時点で早くも、現代数学には好ましくない傾向が見られると指摘されました。

新数学人集団(SSS)の時代 ノート54 大学院問題など

明治時代の大学にも大学院はあり、高木貞治先生も大学を卒業してから1年ほど在籍していましたが、そのころの大学院というのは特に何もすることはなかったようで、単に在籍するだけでした。高木先生は大学院生のころは好き勝手に数学の本を読み、著作を書くなどしていて、洋行に出発するのに先立って中退しています。洋行は早くから決まっていたようで、出発するまでの間の経歴に隙間が生じないようにするために大学院に在籍したのであろうと思います。
 高木先生の時代には大学に進み、卒業するということ自体がすでに「少数精鋭」でした。数学ばかりではなく、学問芸術工業などなど、あらゆる分野でごく少数の人が選抜されて大学に進み、その中のまた少数が洋行し、帰国して大学の教授などになる時代でした。大学は当初は日本にひとつしかなく、それから京都にひとつ、先代にまたひとつというふうに増えていきましたが、大学生であることそれ自体が「少数精鋭」であったことは変りませんでした。終戦ののちに学制が一変し、大学院も定員が設けられて入学試験が行われるようになりましたが、定員とは名ばかりだったのはLさんが報告しているとおりです。
 大学の学生数は現在ほどではないにしても学制改革の前と比べると大幅に増えていて、大学生であるからといって必ずしも少数精鋭とは言えなくなっていたと思います。選抜する側の大学の教員たちは戦前の少数精鋭時代の人たちでしたから、そのころの感受性がそのまま生きていて、定員を無視して大学院生をごくわずかしかとらないという現象が発生したのではないかと思います。ところが、その結果、大学院に進んでさらに勉強を続けたいと願う学生たちの排除につながり、ここに軋轢が生れることになりました。定員が決まっているのだから定員いっぱいの学生をとり、数学の勉強を続ける機会を与えるべきだというのはもっともな議論です。
 このような学制の変化に伴う軋轢とともに、数学という学問そのものの変化という出来事もまたSSSの結成に影響を及ぼしています。数学は第1次大戦後あたりから抽象化に向う傾向1950年代に大学に在籍していた人たちにとって、数学をどのように学ぶべきかということは深刻な問題として受け止められていたことと思われますし、そこから発生した諸問題が「月報」のいろいろな記事になって論じられました。数学とは何か、という根源的な問い。数学はいかにして今日のような姿になったのか、という歴史的な問い。数学は何を研究するべきなのか、という実践的な問い。数学はこれからどうなっていくのか、という将来の展望。このような雰囲気の中でブルバキの動向が注目を集め、谷山さんなどもブルバキの音頭取りみたいなアンドレ・ヴェイユに関心を寄せ続けました。ブルバキとヴェイユはここに挙げた諸問題について、明確な見通しをもっていたように感じられたためであろうと思います。

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西暦2013年は岡潔先生のエッセイ集『春宵十話』が刊行されてから50年目の節目です。

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