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 11月下旬、所用ができて東京に出かけました。23日は中野の新井町に中秀子さんを訪ねました。秀子さんのお宅は『銀の匙』の作者、中勘助先生が晩年の日々をすごした家で、玄関先の表札には当時も中先生のお名前が記されていました。中先生のお名前と並んでもうひとり、中和子さんのお名前もありました。和子さんは中先生の奥様ですが、嶋田家の三姉妹の長女でした。次女は豊子さんという人で、三女が秀子さん。その秀子さんが中先生の養女になって、中家を継ぐという形になりました。豊子さんは嶋田さんのままで、実家の嶋田家を継ぎました。新井町の家はもともと嶋田三姉妹のご両親の家で、戦火を免れましたので、戦後、疎開先の静岡から東京にもどった中先生は、この家に落ち着きました。このあたりの事情はやや複雑で、もう少し詳しく説明しなければならないところですが、中先生のことを語るのは後回しにしたいと思います。
 23日は嶋田家と中家にまつわる昔話をしばらくうかかがいました。
 翌24日、東京郊外の福生市内にある「福生山清岩院」を訪ねました。ここには岡先生の晩年の友、胡蘭成のお墓がありますので、かねがね訪ねたいと思っていました。はじめての土地でしたが、JR青梅線の福生駅から適当に歩いたところ、首尾よく清岩院に着きました。臨済宗のお寺です。墓地が広く、しばらく放浪した後に胡蘭成のお墓が見つかりました。
 墓石の正面に、
   「幽蘭」
という二文字が刻まれていました。胡蘭成の字です。「幽蘭」は花の名前ですが、孔子が作曲したと伝えられる琴の曲に「幽蘭」があります。墓石の左側方の右下に「胡蘭成」の名前と印が刻まれていました。右側方には、
 「胡蘭成一九八一年七月に十五日死亡」
 「戒名胡蘭成居士」
という文字があり、裏側を見ると、
 「昭和五十八年十一月十三日
   施主 胡翁之廣」
と施主の名前が読み取れました。胡蘭成の奥さんは翁之廣という人で、上海の人ですが、自分の名前に「胡蘭成」の姓の「胡」の一字を加えて「胡翁之廣」としたのでしょう。普通に行われている習慣なのかどうか、よくわかりません。
 墓石とは別に「胡蘭成銘」があり、胡蘭成の略歴が記されていました。

一九零六年
中國浙江省嵊県に生マレル
一九二七年
國民革命軍北伐ノ中燕京大学中退 戰時汪兆銘政府法制局長官 漢口大楚報社長
一九五零年
日本ニ政治亡命 福生市ニ住ミ幾多ノ知己ヲ得ル
一九七四年
中華民國中國文化学院大学永世教授 義塾三社ヲ興 易教講説 ソノ著ハ論理生氣發想ノ[一文字不明]変化無量デ神道ト礼樂ノ真理ヲ究メ東洋文明ノ根源ヲ明解スル 信義篤ク終世節ヲ屈セズ己ノ道ヲ貫イタ
一九八一年
七月二十五日死去 享年七十五
一九八三年九月十三日
コレヲ誌ス

 前回の連載「岡潔先生をめぐる人々/フィールドワークの日々の回想」は、平成8年(1996年)2月のフィールドワークの旅の日々のはじまりのころの回想から説き起こし、二年目の終りがけの平成9年(1997年)10月末日まで進んだところでひと休みとなりました。翌11月の前半は旅行に出る機会がなかったのですが、17日、高野山の恵光院に電話をかけました。恵光院は古くから岡家とゆかりのあるお寺です。本当は電話ではなく、実際に訪ねていくほうがよいのですが、フィールドワークにも限界があり、しらみつぶしにすべての場所に足を伸ばすというのは至難です。
 電話口に出たのは恵光院の奥様でしょうか、親切な「おばさま」が応対してくれました。少々長い電話になったのですが、なんでも若いころ岡先生に会ったことがあるとのことで、岡先生はときどきインクびんをもって恵光院にやってきて、しばらく部屋を貸してくれといって10日ほど逗留して論文を書いたりしていたそうです。昭和三十年代ころ、まだ有名になる前ということですから、文化勲章を受けた昭和35年よりも少し前の話でしょうか。もう少し時期を詰めると、お父上が亡くなったのが昭和32年で、それよりも前とのこと。終戦後は恵光院にいたそうですので、昭和20年代から昭和32年あたりにかけてのエピソードなのでしょう。
 岡みちさんがお金をもって、滞在中の岡先生を訪ねてきたこともありました。みちさんは、日本ではまだ無名だが、フランスでは有名だ。気持ちのやさしい人ですと、涙を浮かべて語ったそうです。
 恵光院は岡家と特別の関係があったお寺で、岡家の人が高野山にのぼったときにお参りするお寺だったとか。どの家もそういうお寺をもっていたのだそうです。岡先生は仏教に造詣が深く、恵光院の小僧が岡先生に宗教の話をもちかけると、岡先生に言い返されたりしました。
 フランス語の論文にピンクのりぼんをかけて、お父上にわたしたこともあったそうですが、これは恵光院を離れるときのことでしょうか。その論文は今もあるのでしょうかと尋ねると、どこかにいってしまってわからない、ということでした。

新連載のお知らせ

「新しい数学史を求めて」の前に「岡潔先生をめぐる人々」を連載していましたが、142回まで進んだところでひと休みの恰好になっていました。おおよそ8年分のフーリフィールドワークの模様を記録したいのですが、ようやく2年目の終りがけに達したところでした。岡潔先生の晩年の交友録を書くための不可欠の作業ですので、あすから再開し、しばらくの間、続きを書いていきたいと思います。
 「新しい数学史を求めて」というタイトルを立てて60回まで書き、それから先はさらに「情緒の数学史」というサブタイトルを添えて書き続けてきましたが、今回で通算して140回目になります。岡先生の数学研究を回想するとまさしく「情緒の数学史」の範例になっていますが、もうひとつ、ガウスの数論もまた「情緒の数学史」以外の何物でもありません。岡先生の多変数関数論とガウスの数論はヨーロッパ近代の300年の数学史の流れに屹立する、実にみごとな高峰ですが、ここまで大掛かりではないとしても「情緒の数学」の事例はここかしこに現れています。そこで「情緒の数学」の系譜をたどっていけば、「情緒の数学史」がおのずと成立するのではないかと思います。これを一つの結論と見て、実際に「情緒の数学史」の叙述を試みることがこれからの課題になります。
 パリの科学アカデミーで失われたアーベルの「パリの論文」がたどったその後の運命のことなど、気がかりなことがいくつか語り残されていますが、稿をあらためて報告する機会を待ちたいと思います。

 岡先生は内分岐点をもたない領域でハルトークスの逆問題の解決に成功し(前期の研究)、内分岐領域では道半ばで行き詰まりました(後期の研究)。成功した前期の研究の全体と、後期の研究のうち、事がうまく運んだところまでが集大成されて今日の多変数関数論の基盤が形成され、内外で何冊かのテキストも現れました。ぼくも手に入れて読んでいたのですが、岡先生の研究が途中で放棄されたとは知る由もないことで、岡先生自身の論文集を読んではじめて諸事情がわかりました。
 岡先生の論文集は多変数関数論という数学の一領域の古典中の古典で、古典という言葉は「一番はじめに書かれたもの」というほどの意味で使っているのですが、古典を読まなければわからないことというのはたしかにあります。理論の生命は古典、すなわち「その理論の一番はじめの著作」には充満していますが、それから先は次第に消えていきます。どんな理論にも「一番はじめに創造した人」が必ずいて、そこに充満している「理論のいのち」は、その「一番はじめの人の情緒」です。数学がわかるとかわからないという現象の内実は知的でも論理的でもなく、「一番はじめの人」の数学的意図に共感することができるか否かに左右されます。岡先生の論文集に教えられて、こんなふうに理解するようになりました。
 このようなわけですので岡先生の論文集は「一番はじめに読んだ古典」になったのですが、この体験がきっかけになって古典を読むことのおもしろさと重要さに気づきました。それまでは数学がわかるというのはどのようなことなのか、何を勉強しても確信がもてなかったのですが、この肝心なところがはっきりと諒解されました。「一番はじめの作品」を読まなければ、わかるということもなければわからないということもありません。数学を学ぶには古典を読むほかはなく、しかもそれ以外には道はありません。数学の本を読むときは数式の変形を追ったり論証を細かく詰めていったりする作業を強いられるのですが、気づいてみれば単純で簡単な作業の連続にすぎないのですから、どんな本でも難なく読めます。そこに何かしら意味を汲もうとするとうまくいかなくなりますのでついつい行き詰まってしまうのですが、実際にはそこには「意味」はないことに思いいたれば困難は消失します。ただし、どんなに大量の本を読んでも感動は伴いません。
 岡先生の論文集にはもうひとつ教えられたことがあります。それは、「数学は決して完成しない」ということで、岡先生自身の体験がその模様をありありと物語っています。たとえ内分岐領域においてハルトークスの逆問題が解けたとしても、それならそれでさらに前方の光景が展望されるようになるということですから、終点に到達したわけではありません。ガウスの数論の場合にも同様の状況が観察されましたが、このあたりの消息は数学という学問の歴史的性格を明示しています。数学は継承者が現れてはじめて数学になるのであり、継承者が途絶えれば忘れられてしまいます。数学と数学史は切り離すことができません。

 「ハルトークスの逆問題」の創造にあたり、岡先生がレビの研究を参考にしたことは間違いのない事実です。後年のことですが、ある人が岡先生に「どうして多変数関数論を研究しようとしたのですか」とお尋ねしたところ、岡先生は、「それはレビがあったからだ。レビの研究があったから、できると思った」と言下に答えたそうです。この話の当事者にお会いする機会があって、直接うかがったのですが、問題の性格から見て岡先生の言葉の通りと思います。レビにはたしかに擬凸状領域の概念があり、正則領域な擬凸状であることを示すこともでき、解決することはできなかったとはいうものの逆問題さえ提案しました。非常に特殊な状況に限定されていたのですが、ともあれ全体の構造を眺めるとハルトークスの逆問題と同じです。
 そんなわけですので、岡先生のハルトークスの逆問題がレビの影響を受けていることに疑いをはさむ余地はないのですが、それでもなおハルトークスの逆問題はレビの問題ではありません。レビはハルトークスの連続性定理に足場を定めて一連の思索を続け、レビの問題に到達したのですが、岡先生もまたハルトークスに立ち返り、ハルトークスの連続性定理そのものから擬凸状領域の概念を抽出しました。擬凸状領域の概念をクリエイトしたのは岡先生であり、ハルトークスの逆問題をクリエイトしたのも岡先生。そのハルトークスの逆問題を解決したのもやっぱり岡先生なのでした。ここのようなことは岡先生の論文集を読んではじめてわかったことで、他のどんな本を見ても何もわかりませんでした。
 レビの問題はハルトークスの逆問題の雛形ではあってもハルトークスの逆問題そのものではありませんから、岡先生としてはハルトークスの逆問題と呼ぶのが当然で、レビの問題という呼称を採用するわけにはいきません。ですが、雛形は雛形でも、岡先生の目には「ハルトークスの逆問題がここに芽生えている」と映じたのでしょう。そこで岡先生は、自分が取り組んだ未解決問題がベンケとトゥルレンの本に出ていると言ったのであろうと推定されるのですが、そんなふうに言う資格があるのはただひとり岡先生があるのみで、ハルトークスの逆問題は岡先生がクリエイトした問題であることをくれぐれも忘れてはならないと思います。
 ヨーロッパの学者は岡先生によるハルトークスの逆問題とその解決を見て、レビの問題の解決と考えようで、「岡はレビの問題を解決した」と言い続けて今日にいたっています。ヨーロッパにはヨーロッパの数学がありますから、ヨーロッパの数学者たちにはそのように呼びたい事情があったのでしょう。ですが、日本の数学者たちまでもがハルトークスの逆問題という呼称を顧みず、欧米の数学者たちにならってレビの問題一辺倒になっているのは不可解ですし、まったくおろかしい光景です。今からでも遅くありませんから、ハルトークスの逆問題という呼称が復活するよう、尽力したいと思います。

 「レビの問題」のレビはイタリアの数学者で、ハルトークスを継承して多変数関数論の研究に向い、未解決の課題を遺したまま第一次世界大戦で戦没しました。岡先生が参照したベンケとトゥルレンの著作を見るとレビの研究を紹介する箇所があり、そこにはたしかにレビが提示して、しかもレビ自身は解決することのできなかった問題が記録されています。それでその問題は「レビの問題」と呼ばれているのですが、岡先生御自身もベンケとトゥルレンの著作に出ている三つの未解決問題を解いたと言っていますし、そのうえそのひとつは実際に「レビの問題」なのですから、岡先生は「レビの問題」を解決したと指摘したからといってまちがっているとはとても思えません。多変数関数論のすべてのテキストにそのように書かれていますし、内外の数学者のエッセイや解説などを参照しても「岡先生はレビの問題を解いた」と明記されています。ただひとつ、岡先生の論文集だけが例外でした。
 岡先生はどんなふうにして「レビの問題」を解決したのだろうと思い、興味津々で読み進めていったのですが、実際に眼前にしたのは「ハルトークスの逆問題」という、見たことも聞いたこともない問題でした。どうしてそのように呼ぶのかという説明があるわけではなく、岡先生は
 「擬凸状の領域は正則領域だろうか」
という問題を立てて、これを「ハルトークスの逆問題」と呼んでいるのですが、この問題は岡先生の論文集以外のすべてのテキストで「レビの問題」と呼ばれている問題そのものです。まったく変なことがあるものです。
 考え直してみると「擬凸状の領域」という基本中の基本概念にも不可解なところがありました。「レビの問題」というくらいですから、レビは当然この概念を認識していたと思われるところですし、多変数関数論のテキストにはたしかに擬凸状領域を定義する文言が出ていて、そこにはほとんどいつでも参考文献としてレビの論文が挙げられているのですが、わかったようなわからないような感じで、いどのような領域を指して擬凸状領域と呼んでいるのか、いつまでも判然としませんでした。
 こんな疑問を解消してくれたのも岡先生の論文集でした。擬凸状領域の定義は第4番目と第6番目の論文に出ていますし、第9番目の論文には異なる三通りもの様式で擬凸状領域の定義が記されているのですが、結局のところ、擬凸状領域の概念をはじめて提案したのは岡先生その人であることがありありと諒解されました。
 もっとも何も兆候のないところにいきなりこのような概念を持ち出したのではなく、滑らかな超曲面で囲まれた領域というようは特別の種類の領域については擬凸状の概念はすでに提示されていて、だれが提案したのかというと、それがレビでした。レビはハルトークスの研究の延長線上で多変数関数論を探求した人ですから、出発点は「ハルトークスの連続性定理」です。したがってレビが提案した擬凸状領域の概念にはハルトークスの連続性定理が反映し、「滑らかな超曲面で囲まれた領域」に対してその連続性定理をあてはめると、正則領域であるために満たすべき条件が出てきます。それは必要条件なのですが、そのうえでさらにレビは逆向きの問題を提起しました。ベンケとトゥルレンの著作にはその情景が描かれていて、そこにレビの問題が書き留められました。

 岡先生と小林秀雄との対話『人間の建設』にもどると、「問題を創る」という話に目がとまります。

小林秀雄
すると、岡さんの若いときに発見なさった理論は一貫して続いているわけですね。
岡先生
そうです。フランスへ行きましたのが一九二九年から一九三二年、そのころまでは数学のなかのどの土地を開拓するかということはきまっていなかったのです。フランスに三年おりました間に、その土地をきめた。土地を選んだということは、私に合った数学というものがわかっておったのでしょうね。そこまでいくと、はっきりした形では言えませんが、以後三十年余りその同じ土地の開拓をやっているわけです。
小林秀雄
それはどういうことですか。
岡先生
その当時出てきていた主要な問題をだいたい解決してしまって、次にはどういうことを目標にやってくかという、いまはその時期にさしかかっている。次の主問題となるものをつくっていこうとしているわけです。
小林秀雄
今度は問題を出すほうですね。
岡先生
出すほうです。立場が変るのです。中心になる問題がまだできていないというむつかしさがあるのです。

 岡先生の数学研究が語られるとき、よく「未解決の三つの問題を解いた」と説明されるのですが、これは正しいとも言えますし、的が外れているとも言える評言です。ここに引いた岡先生の言葉を見ると、岡先生は「当時出てきていた主要な問題をだいたい解決した」と自分で語っていますし、別のエッセイでは、当時の主要な問題というのは三つの問題の作る峨々たる山脈であるとも書いています。それで、多変数関数論には未解決の三問題というのが明確に提示されていて、岡先生はそれらを解決したのだと理解されているのですが、もとはといえば岡先生自身がそのように語っているのですから、間違いとは言えません。それに、岡先生が出発点にしたベンケとトゥルレンの著作を見ると、そこにはたしかに岡先生のいう三つの未解決問題が出ています。ただし、フェルマの大定理やリーマンの予想のようにまぎれようのない形で提示されているわけではありません。
 未解決の三問題というのは、「クザンの問題」「近似の問題」、それに「レビの問題」のことを指しています。ぼく自身の体験を回想すると、岡先生の論文集を読む前に多変数関数論のテキストを何冊か集めて読んでいたのですが、その時期には通説を信じていましたので、岡先生のいう未解決の三問題とはどんな問題なのだろうと興味を強くそそられたものでした。ですが、どういうわけか、わかったようなわからないような状況がいつまでも続き、岡先生はいったい何を解明したのだろうという素朴な疑問はいつまでも消えませんでした。この疑問は結局のところ、岡先生の論文集を読むことによりたちまち消失したのですが、岡先生自身の説明の仕方もあまり適切ではなかったのではないかと思います。
 岡先生の論文集を読んだ後で岡先生自身の説明にもう一度、耳を傾けると、今度は別の光景が目に映じるようになりました。岡先生は「三つの問題の作る峨々たる山脈」という言い方をしているのですが、三つの問題は実は無関係ではありません。それどころか中核に位置する問題はただひとつで、それがハルトークスの逆問題なのですが、岡先生はこの問題を解くための道を開こうとして、クザンの問題と近似の問題の解決をめざしたのでした。
 こんなふうにして通説は俗説にすぎないことが諒解されたのですが、岡先生の論文集を読んだために新たな問題が発生しました。それは中心問題の呼称のことなのですが、岡先生は「レビの問題」を解いたということになっていたにもかかわらず、岡先生の論文のどこを見ても「レビの問題」という言葉は見あたらず、目に映じるのはどこまでも「ハルトークスの逆問題」ばかりでした。「レビの問題」を解いたからというので高い評価を受けている当の本人はこの言葉を決して使用せず、それどころか「ハルトークスの逆問題」という、世界でただひとり岡先生だけしか使わない言葉にはじめて出会いました。まったく不思議な光景でした。


 岡先生は三高の生徒のころ、岩波文庫に入ったポアンカレのエッセイ『科学の価値』を読み、リーマンの数学を語るクラインの言葉に接して感激したことがあります。ポアンカレが語ろうとしたのはリーマン自身というよりもクラインのことで、クラインはリーマンが(一変数の)代数関数論の基礎にした「ディリクレの原理」体感しようとして物理的な説明を工夫したのですが、そこのところに注意を喚起したところにポアンカレの文章の意図がありました。岡先生はクラインの考案にも感心したとは思いますが、いっそう深遠な興味を感じたのはリーマンその人に対してでした。
 京大の学生のころは丸善でクラインの全集を購入し、リーマンの代数関数論を論じた著作を読みふけることもあり、将来はリーマンの続きをやるのだという数学の夢を心に描いたということです。それからの道筋は平坦とはいえず、数学の研究の場でも曲折があり、ハルトークスの逆問題というテーマを創造することができたときには34歳になっていました。
 ハルトークスの逆問題の究明期も大きく変遷し、前期と後期に二分され、後期の研究はとうとう完成にいたらなかったのはこれまでに語ってきた通りですが、後期の研究のそのまた最後の時期になって現れたのは、三高時代にさかのぼる「リーマンの定理」なのでした。岡先生のいう「リーマンの定理」の数学的内容はどうも判然としないのですが、多変数の代数関数論をめざしていることだけは明瞭に伝わってきます。リーマンがディリクレの原理の土台の上に築いたのは一変数の代数関数論。岡先生が企図したのは多変数の代数関数論。後期の内分岐領域研究の意図もこれではっきりとわかります。内分岐領域の理論は多変数の代数関数論の基礎理論です。このような数学的構造もまたリーマンにならっているのですから、ハルトークスの逆問題のから「リーマンの定理」へと続く岡先生の数学的思索の全体が、そのままリーマンの継承になっているのでした。
 こうしてみると岡先生の数学研究の進むべき道は、三高の生徒のときにすでに定まっていたように思います。三高時代というと10代の終りがけのころのことになりますが、それならガウスの場合と同じです。「青春の夢」というか、10代の後半にさしかかりますと、人生の方向を決めてしまう何かしら特別の出来事がさりげなく生起するものかもしれず、数学者のひとりひとりの生涯を回想するとそんな事例があちこちで目につきます。
 岡先生の「リーマンの定理」の研究記録を収録した13個の大型封筒の話にもどりますと、最後の13番目の封筒には31枚の紙片が入っています。これは昭和39年(1964年)8月20日に書き起されて9月22日まで書かれたのですが、これとは別に、同年同月の8月9日の日付で微分方程式の研究記録が書かれています。研究の記録なのですが、第11番目の論文のような体裁になっていて、表紙にフランス語で

Sur les fonctions analytiques
  de plusieurs variables
 Ⅺ− Lemme
sur les e’quations differentielles
aux derive’es partielles
  Par
 Kiyoshi Oka
 1964. 8. 9(日)
  其の一
(多変数解析函数について Ⅺ−偏微分方程式に関する補助的命題 岡潔 1964. 8. 9(日) 其の一)

と記されています。本文は「其の一」と「其の二」に分かれ、「其の一」には12枚の紙片が所属しています。
 『春宵十話』の第10話「自然に従う」を見ると、
 《いま私は十一番目の論文にさしかかっている。》
という言葉が目に留まります。エッセイ集『春宵十話』は昭和38年のはじめに単行本の形で刊行されましたが、毎日新聞紙上に連載されたのは前年の4月でした。それで、岡先生の発言中の「いま」というのはその時期あたりを指すのですが、昭和39年8月9日付の一枚の表紙には岡先生の幻の第11論文の影が射しています。
 「自然に従う」をもう少し先まで読むと、こんな言葉に出会います。

《自分でいま考えている研究目標は、あと十五年あれば一応できると思うが、私ももう数え年で六十二歳だから、あと十年ぐらいはやれるけれどもそれ以上はあやしい。本当はバトンを次の人に渡すところまでやりたいが、渡すことができずにたおれても、それでもいいじゃないかと思う。」
《漱石先生が「明暗」を書きながらたおれたのも、それでいい。「雪の松折れ口みればなお白し」といった気持ちである。芭蕉がこの句を作ったとき、彼の意識には一門の運命が去来していたのではなかったか。そう考えれば「なお」の意味がよくわかるように思われる。数学史を見ても、生きてバトンを渡すことはまずない。数学は時代を隔てて学ぶのだと思う。》

 岡先生が晩年の心情を托した一句「雪の松折れ口みればなお白し」は蕉門の俳諧七部集のひとつ「炭俵」に出ている歌仙の発句です。ただし作者は芭蕉本人ではなく、お弟子の杉風です。
 岡先生がこの世にお別れした後、研究記録や日記やエッセイや連句など、大量の書き物が遺されました。大半を占めるのは研究記録で、たいてい日付が記入されていますので、日々の思索の変遷が手に取るように伝わってきます。論文の草稿もあり、しかも何度も書き直されていますので、思索の足跡をたどるうえで貴重な文献です。日記は生活の記録ですが、岡先生の生活というのは「数学研究の中の生活」ですから、毎日の数学研究と切り離すことはできません。エッセイと連句は種類が豊富です。連句稿いってもだれかと連句を巻くというのではなく、「ひとり連句」というか、岡先生は自分で自分に句をつけています。これらの文書群をすべてコピーしたところ、全部でおおよそ1万4千枚ほどに達しました。
 晩年の研究記録はほぼすべて内分岐領域をめぐって書かれていますが、岡先生が60代にはいったころから「リーマンの定理」という題目の記録が出現します。岡先生の遺稿は岡家の離れの建物に保管されていたのですが、「リーマンの定理」を見つけたときは深遠な感動に襲われてしばらく言葉がありませんでした。
「リーマンの定理」は13個の大型封筒に入れて積み重ねられていました。第一の封筒には、封筒の表紙に
   「Riemannの定理 其の一」
と書かれ、中には66枚の研究記録が入っています。日付もあり、昭和36年(1961年)の大晦日12月31日から翌昭和37年1月30日に及んでいます。前期の研究も昭和9年の年末ぎりぎりの時点で構想がスケッチされ、年明け早々から本格的な研究が始まったのですが、こんなところは「リーマンの定理」の場合もよく似ています。


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